
仏教志塾とは関係ありません。
法 句 経(北伝)
超訳です!
お釈迦さま目線なのに、衆生の目線になっていたり
お釈迦さまが消えたりしています。
意訳からは程遠いものですので、ご注意ください。
篤信品第4
篤信品者 立道之根果 於因正見 行不囘顧
篤信品とは 立道の根果なり
因に於いて正見ならば 行を囘顧みず
とくしんほんとは りつどうのこんかなり
いんにおいて しょうけんならば
ぎょうをかえりみず
お釈迦さまの教えを学ぶなら、
この篤信品は結構大事だな
まず・・
行動には、当然の結果が付いてきちゃう
・・これを知ろう!
因を正しく見よう!ものごとの元を見極めよう!
因果の因が正しく見られることが基本の基本だ。
それ次第で結果が決まる。
善因は善果を招くが、悪因は悪果を齎すよ。
チャンとやればチャンと善くなる。
いい加減にやれば、当然の結果が貴方の元へ!
信懺戒意財 是法雅士譽 斯道明智説 如是昇天世
信懺戒意の財あるは 是れ法雅士の譽なり
斯道明かなるを智説とし 是の如きは天世に昇る
しんざんかいいのざいあるは これほうがしのほまれなり
このどうみょうあきらかなるを ちせつとし
かくのごときは てんちにのぼる
到彼岸専門学校
阿羅漢島 経由 如来のコース・・
仏道修行『七聖財』で必須七条項
(1)聞法・・正法を聞く
(2)信受・・正法を信受
(3)持戒・・戒律を守る
(4)禅定・・心の安定
(5)精進・・仏道修行
(6)喜捨・・執着から離れる・他人に施す
(7)慚愧・・自分の修行状態をチョイト省みて・・
『ミットモナ~イ』と強く反省して意識向上!
こんなのがあって・・・
『信・慚・戒・心の財』は七聖財に並べれば判り易い。
仏道修行者は、これが得られたら最高なんだ!
地道に努めれば、徳はしっかり積み集められ、
その結果は彼岸到着となるのだ!
愚不修天行 亦不誉布施 信施助善者 従是到彼安
愚は天行を修せず 亦布施を誉めず
信施して善を助くる者は 是に従って彼の安に到る
ぐはてんぎょうをしゅうせず またふせをほめず
しんせして ぜんをたすくるものは
これにしたがって かのあんにいたる
仏の智慧を疑い迷う者は、布施についてもイチャモンが有るよね。
そういう心持なら如来の救済対象から外れてしまうね。
正しい布施行ができる方々、それは如来や仏弟子のサポーターだ!
彼らは・・如来の真理を授かることが出来る。
彼らは・・仏弟子の利他行の利益をしっかり受けることが出来る。
在家だって彼岸へ行けるのだ。
サポーターでいるならば心配ないのだ。
例えば・・
お釈迦さまは、祇園精舎を寄進布施した大金持ちの須達長者さんに
対して『貴方は最高の布施をしたから、涅槃に行けるよ~』と約束(およそ授記作仏?)しちゃっていますよ。
信者眞人長 念法所住安 近者意得上 智壽壽中賢
信ある者は眞に人の長たり
法を念すれば所住安し
近づく者は意に上なることを得
智壽は壽中の賢なり
しんあるものは、まことにひとのちょうたり
ほうをねんずれば、しょじゅうやすし
ちかずくものは、こころにじょうなることをえ
ちじゅはじゅちゅうのけんなり
如来(如来使)は我々のリーダーだ!
如来が法を説くことを続けて、
在家者仏教徒(サポーター)が支援サポートすれば、
そこは穏やかな居住地に成る。
如来のサポーターは信心深いのだ
如来から直接お話を戴ける
救いを求めるかぎり傍にいてくれる。
当然、如来(如来使)から教えを受けられるサポーターは
知恵は聡明となり誰からも慕われる
そして・・素晴らしい人生になる
(はずし過ぎたので若干修正しました。)
お釈迦さまの説法、最初の在家仏教徒発生の場面につなげてみた。
その時代のオボッチャマ君!耶舎(ヤシャス)の出家騒動の概要
人生に満足しすぎのヤシャス
つまらない!と弟子希望!
⇒家出して釈迦さまの所へ!
妻がいるのにも拘らず出家(家出)した!
ヤシャスの家族は捜索開始
ヤシャスはお釈迦さまの説法を聴いて其の気満々!
父親はお釈迦さまの処に隠れているとの情報入手
出会う直前にヤシャスは透明人間にされる。
透明人間になったヤシャスの傍で父親は説法を受ける。!
同じ話を2回聞いたヤシャスは立派な仏弟子に変化!
仏弟子と成ったヤシャスと対面!
ヤシャスの父親は、息子の出家を承知する。
と同時にお釈迦さまの説法を聴いて・・
⇒最初の在家仏教徒の男性(優婆塞)になった。
~後日~
耶舎の母と耶舎の妻は、お釈迦さまの説法を聴いて・・
⇒最初の在家仏教徒の女性(優婆夷)になった。
※この耶舎(ヤシャス)は人です。
あの夜叉(ヤクシャ)とは違います。
信能得道 法致滅度 従聞得智 所到有明
信は能く道を得 法は滅度を致す
聞に従って智を得 到る所に有明り
しんはよくみちをえ ほうはめつどをいたす
もんにしたがってちをえ いたるところにみょうあり
如来のように信心深い方は菩薩の道を得て涅槃に進むね。
多聞で何でも何事も正しく学んで知識を極められている。
だからその行先は覚りの世界であること疑いなし!
信能渡淵 攝為船師 精進除苦 慧到彼岸
信は能く淵を渡り 攝は船師と為る
精進は苦を除き 慧は彼岸に到る
しんは よくえんをわたり
せつは せんし(フナシ)となる
しょうじんは くをのぞき
えは ひがんにいたる
信心の強い方は、向こう岸(彼岸)まで渡れる。
その海が、深かろうが、流れが早かろうが関係ない。
彼岸に渡る方法は其々に見合った方法で構わないのだが・・
例えば・・船で彼岸に渡るコースにしよう。
しっかり仏道修行を積んできたのならば・・
法を理解しているのだから、
対岸の彼の岸まで迷わず渡れる賢い船頭なのだ。
精進が齎す効果により、淵の深さや流れの速さなどの
恐怖(人界の苦)は滅せられ穏やかな海だ!
苦海の浪に浮く小舟には成らないのだ。
水面をホバークラフトの様に進めるぞ!
会得した智慧のパワーで彼岸到達は問題無し。
雑記・・
残念なことに、途中の阿羅漢島をゴールにしたグループが
発生してた!
士有信行 為聖所譽 樂無為者 一切縛解
士に信行有らば 聖の為に譽めらる
無為を樂しむ者は 一切の縛を解く
しに しんぎょうあらば しょうのために ほめらる
むいをたのしむものは いっさいのばくを とく
仏道を正しく理解している御方は、聖者として讃えられる。
そして余計な策略を企んだり、個人的利益を求めたりすること無く世の中の安寧を願っているからこそ聖者なわけであって、そのような高い境地にある聖者は、当然のことだけども世の中に存在する全ての災難から解き放されているのだ。
信之與戒 慧意能行 健夫度恚 従是脱淵
信と戒と慧と 意に能く行ぜば
健夫は恚を度し 是に従って淵を脱せん
しんと かいと えと
こころによくぎょうぜば
ごんぶは いをどし
これにしたがって えんをだっせん
『信ト・之與レ戒 慧ト』がチョット読みにくいよ。
信之の「之」は読まないよね。
與戒の「與」はレ点を入れ『~と』となるから「戒と」だ!
確たる誠意を保ち、併せて戒律を厳守して、さらに智慧を深く保っているならば・・
五欲なんかに惑わされることも無い。
お釈迦さんは、心身ともに乱れることなど無い。
つまり、お釈迦さまの無明はしっかりコントロール(滅⇒制御)されている。
お釈迦さまの高度な精神状態では自分勝手!我儘!悪質な要求などの衆生が持っている恐ろしい自分本位(放逸な状態)は、成道したので制御下(不放逸状態)に置かれている。
衆生が置かれている苦海(無明&放逸)より解脱(知明&不放逸)し真理を得ているのだ!
雑記・・
煩悩を滅っするの『滅』は消す・無くすじゃないよ。
制御・コントロールが正しいよ。
これ・・
nirodha(ニローダ)を滅と漢訳した事から始まる重大ミスだ。
日本仏教はミスった状態を維持しているよ。
例えば四聖諦の三番目・・
滅諦⇒苦の滅という聖なる真実
(nirodha satya ニローダ・サティア)
これを
『苦をコントロールするという聖なる真実』だと判り易いよね。
消せるのは人じゃないよね。できっこないから~
制御ならヒトでも真似できそうだもんね。
そうすれば続く道諦(八正道)を「頑張っちゃうぞ~」って理解しやすくなるね。それが『聖なる』に重なるよ。
~苦をコントロールすることに目覚めた方が知る真実~
信使戒誠 亦受智慧 在在能行 處處見養
信は戒を誠ならしめ 亦智慧を受く
在在能く行ぜば 處處に養見る(養ハル)
しんはかいを まことならしめ
また ちえをうく
ざいざいよくぎょうぜば
しょしょに やしなはる
地道に戒律を保ち仏道に励めば、経験が智慧に変わるよ。
今、行っている正しい修行を、この先も継続して行くならば・・
その修行活動は圧倒的仏教パワーが備わっているから活動の場所など問う必要もなくなって・・
供物・布施を蓄える福田(貯蔵庫=精神的なモノ!)も、立派なものと成るよ。
貯蔵庫に集まる布施に込められる衆生の願いや思いを漏らすことなく受け止め、対応できる『確実な智慧』があるからこそだね。
(立派なお方は、何処で布教活動しても絶賛されるから、お布施がたくさん貯まる。だから教団運営も安泰だぁ!)
比方世利 慧信為明 是財上寶 家産非常
方に世利に比すれば 慧信は明為り
是れ財の上寶なり 家産は非常なり
まさにせりにひすれば
えしんはみょうなり
これざいのじょうほうなり
けさんはひじょうなり
銭や宝物などの物欲の財宝より、知恵・智慧・仏道を覚る方が価値のある財宝だ!
物欲の賜物である家屋敷なんぞ、そんなモノに執着したって、いつか消えるさ。
無明に振り廻されているよ。
常に在り続けるモノではないのにね!愚かだね~
無明は知明へ
放逸は不放逸へ
後出の法華経の如来寿量品の自我偈おわりころに
ホウイツニシテ(思うまま、自己中心的面を制御しなければ)
ゴヨクニジャクシ(悪心が要求する欲を貪り続ける)
アクドウノナカニオチナン(迷いの中にいる居続けるだけじゃん)
ってね
欲見諸眞 樂聴講法 能捨慳垢 此之為信
諸の眞を見んと欲すれば
樂うて法を聴講し
能く慳垢を捨す
此を信と為す
もろもろの しんをみんと ほっすれば
ねごうて ほうを ちょうこうし
よく けんくを しゃす
これを しんとなす
確たる真理を知り得たいならば
努めて多くの授業を受けて
人間が持っている七種類の垢!
欲垢、見垢、疑垢、慢垢、憍垢、隨眠垢、慳垢
〔瑜伽師地論卷十四から〕
の慳垢を捨てる?
そのままだと・・
慳垢は痰(タン)⇒肺病の元!
これって「上手にタンを吐け」じゃないよ!
心の中にある6個の『悪いモノ』
良くないサンスカーラのことだ。
そして残る1個
これら6個を興す良くないサンスカーラを包括したうえでの
『体の中にある悪いモノ』が慳垢
この慳垢を捨てるのだ!
つまり・・
不惜身命になって修行に励め!
勉強しろ!ってことだね!
信能度河 其福難奪 能禁止盗 野沙門樂
信は能く河を渡り 其の福奪い難し
能く禁じて盗むことを止めよ
野に沙門の楽しみあればなり
しんはよくかわをわたり
そのふくうばいがたし
よくきんじてぬすむことをやめよ
やにしゃもんのたのしみあればなり
修行者の「一生懸命学ぶ」その頑なな真面目さがあれば、彼岸へ渡ることが出来るさ!
渡れる喜びという福は奪い取ったりできるものでは無い。
なので盗み戴こうとすることは止めときな!
信を励もうとする修行者が持てる特典だ!
法句経は主に阿含経なんかだよ。まだ法華経はナイヨ~
ところで、この解説に『法華経の以信代慧』がつかえるよね!
でもね『無知でも信仰心で彼岸へ行ける』の解説を見かけるね。
これは『信』を「信仰」と読みすぎちゃっているようで何となく落ち着かないね。
彼岸に渡る方法は、100人いたら100種類あっていいのだ!
エンジン付きボートで早く渡れる奴もいれば、手漕ぎの船で一所懸命だけど時間をいっぱい使う奴もいていいのだ!向こうに行こうとする信念「目覚めているか?気が付いているか?」が大事だぞ~
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
当然これも・・困難を乗り越えて彼岸へ行こう!とする『信』の上にあるよね!(でも授記作仏は法華経まで待たないとね・・)
無信不習 好剥正言 如拙取水 掘泉揚泥
信無きに習はず 好んで正言を剥ぐ
拙きが水を取るに 泉を堀りて
泥を揚ぐるが如し
しんなきにならはず
このんでしょうごんをはぐ
つたなきがみずをとるに
いずみをほりて
どろをあぐるがごとし
向上心など一切なく、真面目に学ぶ者の邪魔をするような奴
理解などする気も無く「メンドクセ~」とか
「何の役にも立たない!」とか言って、仏法を貶す奴!
そのような奴の話だけど・・
上手に掘れば綺麗な水が湧き出る井戸となる場所にも拘わらず・・
我夢者羅に掘りまくって泥水にしているアホ!
正しい教えが目の前に有るにも拘わらず
苦に塗れるオバカサンのこと!
賢夫習智 樂仰清流 如善取水 思令不擾
賢夫は智を習ふ 清流を樂仰すること
善く水を取るものの 思うて擾らざらしむるが如し
けんぶは ちをならう
しょうるを ぎょうごうすること
よくみずをとるものの
おもうて みだらざらしむるがごとし
真面目で勤勉な善人は、己の知恵を向上の為に学ぶ。
様々な情報から高品位な知恵を得る。
それはプロの井戸屋(井戸掘業・井戸の番人・水汲人)が濁らないように浄水を汲み上げるのと同じだ。
智を習うならば、邪教を避け正しい教えを入手できるのだ。
ミダラ+『不(ざ)ラ』+『令(し)ムルガ』+ゴトシ
令=承継される〇〇(エスプリ等)を護り続ける!とか~
信不染他 唯賢與人 可好則学 非好則遠
信は他を染せず 唯賢を人に與ふ
好んで則ち学すべし 非好は則ち遠し
しんは たをぜん(セン)せず ただ けんをひとにあたう
このんですなわち がくすべし ひこうはすなわちとおし
正しい教えを学ぶ人たちは、周囲の人達に善い影響を齎す善人だ。
善人と一緒に居ると、自ずと学ぶことに熱心になるよね。
だが、正しい教えを学べない人のグループに居るのならば・・
愚欲の苦しみに染まり、正しい教えに近づけないのだ。
信為我輿 莫知斯載 如大象調 自調最勝
信を我輿と為せ 斯載を知ること莫きは
大象を調するが如し 自を調するは最勝なり
しんをわがこしとなせ このさいをしることなきは
だいぞうをちょうするがごとく
みずからをちょうするは さいしょうなり
自分の乗る輿は正しい教えって何だ・・
これって正しく調教された『象』の背中の椅子に乗っていれば彼岸へ向かう!でどうだ・・
どんな『象』の上にある椅子か判らない状態は危険だ・・
調教されていない暴れ象の背中かも!
そんなコントロールできない程の大変な象の背中に乗っている状態は?
それは、自分の無明をホッタラカした族欲な日常を繰り返す愚者の状態だよ!
『自分の無明をコントロールしようと精進している状態』こそが、
正しく調教された象(仏法)の輿に乗っている状態さ!
これが『信を我輿と為せ』の状態!
心中の象(サンスカーラ)をしっかりとコントロールしている我が身となれ!
信財戒財 慚愧亦財 聞財施財 智慧為七財
信も財 戒も財 慚愧も亦財なり
聞も財 施も財 慧とを七財と為す
しんもざい かいもざい ざんきもまたざいなり
もんもざい せもざい えとをしちざいとなす
1番目⇒(正しい信仰の)信は最高の財だ
それには
2番目⇒目指すためのルールを得られる!戒の財で
3番目⇒ルール違反の自己反省!慚の財で
4番目⇒反省内容の告白!これが愧の財で
5番目⇒法を知る・・聞の財で
6番目⇒独り占めしない!施の財で
7番目⇒智慧は智慧となり・・
これが七財(財宝)だ!
まず信じ、たっとうぼうよ!
その上で、2~7の教えを学べば
『信は最高の財』は「信じて尊ばなきゃ」から進化し
『信仰』の本意「信じ、たっとんでいる」になってるね。
単語『信仰』が敬遠されがちな部分が薄らぐかも
従信守戒 常浄観法 慧而利行 奉敬不忘
信に従い戒を守り 常に浄く法を観ず
慧にて利行し 奉敬して忘れず
しんにしたがい かいをまもり
つねにきよく ほうをかんず
えにてりぎょうし
ぶぎょうしてわすれず
信仰が有るから戒律を守れる。
だから、常日頃、心を清くして
法を学ぼう。
会得した知恵で、仏道修行に励む。
なんたって・・
お釈迦さまを尊び忘れないことだ!
知恵で智慧を得よう!
生有此財 不問男女 終以不貧 賢者識愼
生まれて此財有り 男女を問はず
終に以て貧ならず 賢者は愼を識る
うまれて このざいあり
なんにょをとはず
ついにもってひんならず
けんじゃはしんをしる
人は銭で賄えない財産が誰でも有るよ。
これ男女や貧富の差に関係ないよ。
福は考え方次第さ!
知恵をしっかり学び修めた賢い皆さんは、
この事を知っている。
それは・・信仰によって
心身が護られているわけで・・
家族が護られているわけで・・
此れが最高の福だということ!
そして・・
自分の財産を他者と比べることは不要だし
見せびらかすものでもない。
そもそも、そんな愚かな行動は起こさないのだ。
お釈迦さまの教えを求めない人たち
法で心身が護られていないから、不安になってしまう。
法で家族が護られていないから、苦しんでしまう。
欲を比べ合う方々には判らないかもしれない!
☆篤信品おわり
超訳しすぎで手元資料からもだいぶ逸脱しています。
笑読されて、なにかヒントが得られたら幸いです。